ニコタマ製作所。日誌

東京は二子玉川に住んで20年。お仕事と子育てをなんとか回している、庶民派主婦です。

「死ぬこと」に男女の違いはあるかーー「孤独死」について考えてみた

 

こういうことを言うと人でなしだと思われそうであまり口に出さないんですが、

「孤独死」のどこがいけないんだろうと常日頃思っていたわけです。

 

そりゃあ、誰にも気づかれずに死んでご近所や大家さんにご迷惑をかけるのはたいへん問題だと思いますが、言ってみれば問題はそれだけで、そこさえ事前に準備しておけば、本人は死んでるわけですからあとのことはどうでもいいっちゃどうでもいい(すいません、人でなしなので)。私自身は、お墓とかもどうでもいいし、親族にお墓参りしてもらいたいとも思わない。

まあ、こんな傲慢なことを言っている人間に限って、実際にその立場になったら人一倍動揺するような気もしますが、「そのとき」のことは実感としてはまだわかりません。

 

最近、こういった考え方はよくない、自分が今生きているのも、自分の親、そのまた親と、先祖代々からの子供を守っていこうという思いが続いて守られているおかげだ、だから決して祖先やお墓をおろそかにしてはいけないーーということをある方から教わり、なるほどなあとは思いましたけど、本音のところでは、「自分は死んじゃうんだからあとのことはどうでもいい」というドイヒーな考え方が根っこにあったりします(すいません、ほんと)。

 

ですから、「孤独死」は、本人ではなく周りの人の問題だろう、と思っていたのです。

 

ところが、どうやらそうではないみたいですね。

今朝もNHKの朝のニュースで、大阪の釜ヶ崎で5年前に立ち上げられた「見送りの会」を紹介していました。

www.asahi.com

この会を立ち上げた僧侶は、この会を立ち上げた理由を、孤独に暮らす高齢者の中に「誰にも気づかれずに死んでいくのはさびしい、ときには思い出してもらいたい」という声が多かったからだと言っていました。

 

それを聞いて思ったのですが、これはかなり男性的な感覚なのではないかということです。

昔から不思議に思っていたのですが、男性って「生きた証を遺したい」という感覚が女性よりも強いような気がします。

それは何か作品であったり、仕事の成果であったり、建築物であったり、家族であったり、いろいろなパターンがあると思いますが、この世に自分が生きたという爪痕みたいなものを何かしら残して死にたい、と。

その感覚が、どうにもよくわからないんですよね。

なんども言うようですが、

本人、死んでるわけですから。

 

私のことを言いますと、死んだあとに何一つ残らなくてもいいし、

死んだらそのへんにほったらかしてもらって野生動物に食べられて朽ち果ててもいい。それが生き物ってもんだと思います。

ですから、男性が「死んだ後」のことにこだわるのは、男性ってつくづく社会的に認められたい生き物で、それを必要としてしまうんだなあ、となんだか気の毒な感じがするのです。そうやって「生きた証」にこだわるわりに、孤独に陥りがちなのも男性ですよね。

上記の見送りの会も、映像で見る限り、ほとんど男性でしたし。

 

番組の中でひとつ納得したのは、この見送りの会に入ったことで安心して、見送ってくれる仲間のためにもしっかり生きなくては、と逆に生活にハリが出た、と話す男性の言葉でした。

男性は、見送りの会の仲間といっしょに、ボランティア活動にも参加するようになったと言っていました。

 

そうですよね。

「孤独死」を避けようとすることで、結果的に「孤独に生きる」ことをやめ、人とのつながりを作ろうとする。

つまり、「孤独死」の問題は、決して孤独に死ぬことが問題なのではなくて、「孤独な生き方」の問題である、

それはやっぱり本人にとっても周りに取っても問題だなと思いました。

 

周りでまだ身近な方が亡くなった方があまりいない方はピンとこないかもしれませんが、

人って、ほんとに

「生きてきたように死ぬ」

んですよ。

それはもう恐ろしいくらいに。

善かれ悪しかれ、死に方って、その人の生き方がありのままに出ちゃうんです。

生きてきたようにしか死ねない、というか。

 

ですから、満足して死にたいと思うのなら、日頃から満足して生きるしかないんですよねー。

 

今、孤独死が年間3万人だそうです。今後ますます増えることは間違いありません。

いつか自分も必ず迎えるその日のために、

「ああ、あの頃はこんなふうに考えていたな」と振り返られるよう、書いてみましたが、なんだか重たい話になってしまったような……。

たまにはこんなことも考えます。