ニコタマ製作所。日誌

東京は二子玉川に住んで20年。お仕事と子育てをなんとか回している、庶民派主婦です。

「中高年がブログを書く10のメリット」の続き。

 

いきなり寒くなりましたね〜。

 昨日の記事↓の続きです。ちゃっちゃといきます。

www.nikotamaseisakujo.com

 

下のリスト10のうち、3までいったので、4から。

1 自分の考え方を知ることができる

2 反応していただくとうれしい

3 ネタに困らないのでなんだかんだ続く

4 運動になる(取材をするのであれば)

5 お金をつかわなくなる

6 仕事のうさを晴らすことができる

7 老後も続けることができる

8 適度なアウトプットになるので精神的によい

9 つぶそうと思えばいくらでも時間がつぶせる

10 あわよくば収益化できるかもしれない

 

4について。これは、ブログを書くことで運動不足解消になる、ということです。

実はこれについては、お察しの通り、私はまったく実現できていないのですが、ブログの内容をもっとアクティブなものにして、「必然的に動かざるをえない」ものにしてしまえば、実現可能ではないかと。

フィットネスの記録そのものをブログのテーマにしてもいいと思うんですが、たとえば山歩きでも食べ歩きでも、工場めぐりでも、単なる散歩でも、ショッピングでも、街ネタでも、アーチストの追っかけでもなんでもいいので、外に出なくては書けないものを書いていくと、運動になるのでいいと思います。

今なら、衆院選に向けて、推しの候補者の追っかけなんかもいいかもですよ!

 

ちなみに今とても売れているこの本によると

百歳まで歩く―正しく歩けば寿命は延びる! (幻冬舎文庫)

百歳まで歩く―正しく歩けば寿命は延びる! (幻冬舎文庫)

 

 現代人は圧倒的に歩行不足で、それゆえに歩行能力の低下が著しいそうです。

歩くとすぐ疲れる人と長く歩いてもぜんぜん疲れない人の違いは……など、面白いので読んでみてください。
まあつまり、大金をかけて結果にコミットしなくても、とにかくたくさん歩いとけば間違いないようです。

しかし我が身を振り返ってみると、ともすると丸1日、これでもか!というくらい座り倒す生活なので、自分に対していちばん「外に出ないと書けないことを書けよ!」と言いたいですね!(これをブーメランといいます)。

ちなみに上記の本によると、「1日1万歩」と昔からよく言われますが、これは「健康のためには1日に300キロカロリー消費する身体運動が必要」と海外で言われ始め、それをウォーキングに換算するとだいたい1万歩になることから言われ出したことだそうで、その程度の根拠、つまり迷信のたぐいとのことです。
iPhoneユーザーの方はデフォルトで入っている「ヘルスケア」アプリを見ると、毎日の歩数が記録されていますよね(最近知りました)。これを見ると、私の場合、1万歩を超えていることはほとんどなくて、だいたい3000〜8000歩といったところ。1万歩歩くのって難しいんですね。

 

次に5の「お金を使わなくなる」です。

今時の若い人は、お金を使わないというか、そもそも使えるお金がないんだよ!という叫びをネットではよく耳にするわけですが、一方で今時の50代というのはいわゆる「バブル世代」。「消費」が骨の髄まで染みついているので、たとえお金がなくても、「楽しみは金で買う!」という行動パターンになっている人が多いように思います。

しかし、給料がダダ下がり続ける現代。若いときほど自由に使えるお金はないし、そもそもそれほど欲しいものももうない……と心に秋風が吹き始めたときに目に入るのがブログ。

一生懸命ブログを書いているうちに、何かを買うことで埋めていた心の隙間がいつの間にか埋まっていた……という美しい展開が、中高年にはありそうです。

自分の場合ですが、ネットショッピングでどうでもいいものを買うのは、あきらかに減った気がします。

買うことで上がるアドレナリンと、書くことで上がるアドレナリンのトレードオフで、

「書くこと」に軍配が上がったのかもしれません。

 

6の「仕事のうさを晴らすことができる」と8の「適度なアウトプットになるので精神的によい」というのは、メンタル面での効果です。

たとえあなたがどんなに仕事大好き人間であろうと、仕事にはストレスがつきもの。

それに、仕事にはいいときもあれば悪いときもありますし、他人からの評価や自己評価とも無縁ではいられません。

そこで、誰からもシビアな評価をされない場として、ブログがとってもいいのではないかと思うのです。

ブログなら、「業績が上がってない!」とか「やめちまえ!」とか「こんなこともできないのか!」とか言われることはないんですよ、みなさん……。まあ今どきここまであからさまに言われることはあまりないかもしれませんが、そういうことって言外に伝わってくるじゃないですか。

そんなわけで、他人からの評価とは別の流れを作っておくという意味で、ブログがおすすめです。

また、勉強したり本を読んだりというインプットも大事ですが、それだけだと溜め込んで煮詰まるだけですから、誰にも迷惑をかけないアウトプットの場としてもブログは最適。

たとえとして適切ではないかもしれませんが、つまりは排泄と同じです。

精神的にも身体的にも、出すのって大事だと思います。

 

「7 老後も続けることができる」

「9 つぶそうと思えばいくらでも時間がつぶせる」

子供もぶじ育て上げ、そろそろ仕事人生のゴールが見えてきた……。

退職したら自由な時間がいっぱいできるぞぉ〜! 何をしようか、まずは夫婦で旅行でも行くか……

なんて考えている方は、今すぐにでもブログを始めたほうがよかろうと思います。

だいたい、自由を謳歌しながら長年かけて独自のネットワークを作り上げてきた奥さんが、今さらだんなさんとの旅行に付き合ってくれるわけがないじゃないですか。

そして旅行に行けるのなんて、1年の中で数えるほどの日数。残りの日はどうやって過ごすというのでしょうか。

そこで、ご主人のほうも、退職前に独自のネットワーク作りにはげんだほうがよい。

ブログはそのためのツールとしても有効だと思います。

もちろんお金はかからないし、ブログに定年はありません!

そしてこれがさらに、10番目のメリット「あわよくば収益化できるかもしれない」につながっていきます。

 

このブログもアフィリエイトをしていることは前回お伝えしましたが、消費するだけの趣味と違って、もしかしたら収入になるかも、と思ったらやる気も出ますよね。まあ、今のところブログ収入1日数円の私が言ってもなんの説得力もないのですが、「続けることに意義がある」とも言いますし、人によっては、数十万、数百万と稼いでいる人もいるそうですよ。

そこはやり方しだいで、いろいろと工夫できるのだと思います。

 

ということで、最後の方は駆け足でしたが、やっと、「中高年がブログを書く10のメリット」書き終わりました。

あ〜、昨日と合わせて4000字も書いちゃったよ……何これ、仕事……?

 

あと、あまり無理をしない、というのも、中高年がブログを続けるコツかと思われます。

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

1カ月経ちましたので、「中高年がブログを書く10のメリット」をドヤ顔で語ります

 

ブログを始めて、1カ月とちょっと経ちました。

読んでくださる方にはなんの意味もないことですが、趣味と名のつくものは何一つ続いた試しがない私にとっては、これはたいへんな快挙です。

まあこのブログも、セコくグーグルアドセンスを申請したり(いきなりタイトル下に広告が現れたでしょ? お目障りでしたらすみません)、アマゾンや楽天のアフィリエイトを張ったりしてますので、厳密な趣味とは言えないかもしれませんが。

 

ちなみに、アドセンスの審査に通過し、リンクを張ってから今日まで3日間の収入、

5円!

でございます。ああ、ありがたやグーグル様……。

 

さて、1カ月突破のお祝いといいますか、

経験1カ月のブロガーとして、中高年がブログを書くメリットについてドヤ顔で語ってみたいと思います。

リストにしてみました。こちら!↓

 

1 自分の考え方を知ることができる

2 反応していただくとうれしい

3 ネタに困らないのでなんだかんだ続く

4 運動になる(取材をするのであれば)

5 お金をつかわなくなる

6 仕事のうさを晴らすことができる

7 老後も続けることができる

8 適度なアウトプットになるので精神的によい

9 つぶそうと思えばいくらでも時間がつぶせる

10 あわよくば収益化できるかもしれない

 

なんと、キリよく10個になりました。

 

まず1の「自分の考え方を知ることができる」。これは「自分を見つめ直すことができる」と言い換えてもいいのですが、自分でも意外だったメリットです。

日常をつづるということでは、昔ながらの日記でもいいのですが、日記だと読むのは自分だけなので、自分のドロドロした内面をヘドロのように吐き出すだけになってしまい(私の場合)、ちょっとでも面白くしようとかの努力は一切しないじゃないですか。

また、そのヘドロのようなおぞましい内面が紙に書き留められて残っていってしまうのは、日々醜い自分を突きつけられているようで、精神衛生上好ましくないことは言うまでもありません(私の場合)。

そこへいくと、ブログの場合は、少しでもみなさまの目に触れると思えば、表面的に多少、穏やかな人格を装ってみたり、読みやすい文章を書く努力をする。

そしてそれが、自分がふだん考えていることを整理してまとめることにつながり、結果として、「自分ってこんなことを考えているんだ」と認識することにつながっていくんですよね。

それが、自分にとって意外とよかったです。

こんなことでもないと、単なる雑念製造所ですからね〜。

 

 

2は、はてなブログであることが大きいのでしょう。

ほかのブログは知らないのですが、はてなの場合は、スターをつけていただいたり、読者になっていただける場合もあり、はっきりいってすごく嬉しいです、はい。

どうもありがとうございます!(声を大にして)

こういう楽しさがあることも、ブログを始めて初めて知りました。

 

そして3は、中高年って、長く生きているだけに、その気になればネタはいろいろあるし、しかもそれを、気負わずに、肩の力を抜いてアウトプットしていけるんじゃないでしょうか。

これが20代や30代の方の場合ですと、肩の力を抜かれてもどーなのってところがありますが、中高年になると「枯れる」というステージに到達することができ、大したことを言ってなくても「枯れた味わい」で済ますことができます!笑

 

 

 わ〜、そんな身も蓋もないことを書いていたらだいぶ時間が経ってしまいました。

まだ3までしか行ってないな。

 

次回に続く!

 

 

 

 

 

クリエイティブであるということについて。

 

前の記事からだいぶ内容が飛びますが、クリエイティブということについて考えてみたいと思います。

 

思えば、ずっとクリエイティブであるということに憧れてきた人生でした。

なんでまたこうなったしまったのか、そんなことに憧れなければ、もう少し心穏やかに暮らせただろうにと思うのですが、いまだに憧れを持っているんですね。

その思いが高じて、なのでしょうか、自分自身はさほどクリエイティブではないのですが、クリエイティブの周囲をぐるぐると回るような職業につき、いまでも、”目”の周りを回り続けている台風のように、ぐるぐると回っています。

(音楽、映画、広告、テレビ、出版、などの業界で働く人には、少なからず私みたいな人がいるのではないでしょうか)

 

クリエイティブでありたいと思うのにクリエイティブであれないのはけっこう残酷なことで、クリエイティブな人がうらやましいし、自分に対して「これでよし!」とOKサインを出すことがなかなかできません。

その人が売れていようが売れていなかろうが、プロであろうがアマチュアであろうが関係なく、息をするように作品を生み出す、生きることそのものが創造であるような人には、絶対に、死ぬまでかないっこない、と思いながら、これからも生き続けるのだと思います。

う〜ん、まるで自分で作り上げた架空のクリエイティブカーストの下層にがっちりと組み込まれたような人生……我ながらゆがんでるなあ〜。

 

それはさておき、クリエイティブである人とそうでない人には、どこに違いがあるのか。

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロのことについて書かれたこの記事に、

こんな記述がありました。

toyokeizai.net

 

以下、引用です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

フィナンシャル・タイムズのロリエン・カイト記者は、子ども時代のイシグロ氏が「いつかは日本に帰るだろう」と思いながら生活をしていた事に注目する。これが、「小説家に必要とされる、現実からの乖離の修行になったのではなないか」。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「小説家に必要とされる、現実からの乖離の修行」とな!

そうだったんだ、知らなかった。小説家になるのに「現実からの乖離の修行」が必要だったなんて。

 

それでぱっと思い出したがの、芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』。

あれなんか、「現実からの乖離」そのものを描いたような作品だし、

確か宇多田ヒカルも、NHKの「SONGS」に出た時に、

「アメリカにいると自分は日本人だと言われるし、日本にいると日本人ではないと言われるので、結局、ここが自分の居場所、みたいな場所がなかった」みたいなことを言っていた。

そして周りを見て思うのは、歌を作ったり、詩を書いたり、文章を書いたり、絵を描いたり、デザインしたり、パフォーマンスする人は、ひとりっ子の人が多いような気がするのです。

 

ひとりっ子で育った人って、あきらかに「ひとり力」が強いですからね。

あまり人の目を気にしなくて、私からみると「よくそんなことできるな!」と思うようなことをあっさりやってしまったりする。

 

そういう人たちを憧れのまなざしで見つめるわたくしは、長女です。

宗教学社の島田裕巳先生の著書に『生まれ順診断BOOK』という本がありまして、これは隠れた名著で実に面白いのでおすすめなのですが、この本によると、すべての人は、生まれ順の影響を受けて生きると。

長男は死ぬまで長男だし、末っ子は死ぬまで末っ子であってその関係性は一生変わらないので、生き方や人格が生まれ順に多大な影響を受けるのだそうです。

そして、その中でひとりっ子の特徴は、「演劇的に生きる」ことなのだとか。

きょうだいがいる子のように、人との関係性をうまく構築できないので、何か、舞台に立っているかのように生き、実際に俳優になったりする人も多いのだそうです。

『生まれ順診断BOOK』については、また改めて書こうかな。面白いので。

 

知らなかった自分がわかる 「生まれ順」診断BOOK

知らなかった自分がわかる 「生まれ順」診断BOOK

 

 

で、長男、長女はというと、これはもう、ひとりっ子とは対極にあって、

社会性そのもののような人格ですよね。

誰に言われたわけでもないのに責任感が強く、その場の調整役のような立場に、自然と立ってしまう。

周りの目を気にして、自由奔放に振る舞うことができない。

ひとりっ子が社会の前にまず自分ありきだとすると、長男長女は、自分の前にまず社会ありきを刷り込まれて育った人たちなのかな、と。

それってつまり、自分の理想や空想に生きるのではなくて、世俗にまみれて生きるということですからね。

 

まるで天使みたいに、世俗から乖離して、ふわふわと世間を眺めながら生きるクリエイティブな人たち(それはそれできついこともあるのかもしれませんが)と比べたら、どっこい地を這って生きるような生き方に自然となっているのかもしれません。

 

なんか、損してるような気がします……。

クリエイティブの話のつもりが生まれ順に関するうらみつらみの話になってしまいましたが、最終的には個人の資質と言っても、人って案外こういう身近な社会性に規定されて生きている部分が大きいと思うのです。

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

最高に面白い、コンビニ人間。こちらもまたエグいけどおすすめ。

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

 

言うまでもなく傑作。崇高でさえあります。

Fantôme

Fantôme

 

 

 

 

我が家を通り過ぎていった愛すべき家電たち その1

 

 

先日、こんなまとめを見かけました。

togetter.com

 

58年間現役だった松下電器の炊飯器がついに引退と。

家電で58年っていうと、もはや生きた化石レベルですね。

今うちにある炊飯器を58年も使うことなんて想像もできないので、やっぱり電化製品ってシンプルであればあるほど丈夫だなと思います。

 

考えてみると、炊飯器なんてその名のごとくごはんが炊ければいいわけであって、

その本質を見誤ることなく、58年にわたって当該松下製品を使い続けたこのご家庭には、畏敬の念を禁じえません。

 

うちなんて、つい、「おしゃれ」とか「かわいい」とか「便利そう」で買っちゃったりしますから。

 

そう思って振り返ってみると、まず「おしゃれ」で買ってちょっとイマイチだったなというのが、初代だったか二代目だったかの、シャープのサイクロン掃除機。

たぶん、2001年か2002年くらいでしょうか。5〜6万円したように記憶しています。

サイクロンのはしりです。

これ、今、ネットで探してみたのですが画像を見つけられませんでした。

 

これは、形は今のアイリスオーヤマのサイクロン掃除機に近くて、色は明るいオレンジ。今でこそ当たり前になってますが、当時そんな色や形の掃除機はほかになく、掃除機にしてはとてもかわいかったのです。

 

それで「高いな!」と思いつつ飛びついたんですけどね、けっこうすぐに壊れた気がします。

サイクロンに手を出すのが早すぎました。

ちなみに現行機をアマゾンで見ると、9980円。マジか……。

 

シャープ サイクロン掃除機 ベージュ EC-CT12-C

シャープ サイクロン掃除機 ベージュ EC-CT12-C

 

 

気を取り直して、次に買った掃除機が、スウェーデンはエレクトロラックス社のエルゴラピード。

コードレスで自立式って、当時これだけだったと思います。

今調べたら、2004年の発売なので、初代モデルかその次のやつですね。

調べたら、当時16000円でした。

 

 これは使い勝手はよかったんですけど、ちょっと重かったかな。。。

うちに遊びに来たママ友たちからは、

 

「こういうのってさ! 吸引力ないでしょ!! あたしダメ、絶対!!!」

 

「あたしは、クイックルワイパーでいい」

 

と、こんなもんに16000円出すなといわんばかりで、すごぶる評判が悪かったですね……。

実際、吸引力、なかったです。でもいいんです。吸引力よりおしゃれを重視していたので。そのときは。間違ってなかったと思います。

(注:これはあくまでも12年前のエルゴラピードの話なので、今は吸引力もよくなってると思いますよ!)

 

まあでも結局、「またやっちまった……」というせつなさとともに、

自分でも「ダメだ」と判断し、

次に選んだのがこれですよ。

 

 

この! 何の変哲もない! 昔ながらの! 紙パック式掃除機。7980円。

うちにあるのはこれよりさらに前のもので、今はもう売っていませんが!

 

使い続けて早10年。

結局、このシンプルな掃除機がいちばんつきあいが長くなっています。

だって、何の問題もないんだもん。

 

掃除機って、結局のところ、紙パック式が最強じゃないですかね?

 

というわけで、掃除機についてはこれくらいにしまして。

愛すべき家電がまだまだありますので、また次回。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、Nさんが亡くなったことを、Nさんに伝えなくちゃ」と思ってしまったというお話

 

火曜日、お通夜に行ってきました。

突然の訃報でした。

つい2ヶ月前に久しぶりに会ったときは、元気で、

いつも通りよく食べて、笑っていました。

 

おおらかで、のんびりしていて、おだやかで、優しくて、

「ちょっと腹が立った」みたいな話をするときとか、

聞いていると「それ、めちゃくちゃ大変だよね!」とこちらがびっくりするような苦労話をしているときも、いつも笑顔だったNさん。

とても仕事のやりやすい、何一つ文句を言わずにこちらの無理をきいてくれる、

大事な仕事仲間で、大好きな、同年代の友達でした。

 


お通夜に行くと、10年ぶりくらいに会う、なつかしいかつての仕事仲間が何人かいて、

Nさんのことを、「面白い人だったね」と、笑いながら話しました。

(この歳になると、なつかしい面々に会うのは、いつもお通夜かお葬式です)

 

その夜、うちに帰ってきて、疲れて寝て、

おかしな夢を見ました。

 

 

「あ、そういえばNさんに伝えるの忘れてた」

 

「Nさんとまだ話してない」

 

 

夢の中で、そう思いました。

そして目が覚めて、あれ? なんだ今の? 

と思って、

次に、あ、そうか。と思って、

また、悲しくなりました。

 

 

そう。

だって、ほんとに変だったんですよ。

Nさんのために集まっているのに、肝心のNさんがいない

んですから。

 

頭ではNさんが亡くなったことはわかっていたけれど、

心が、まだ、現実に追いついていなかったのだろう。

ほかの人はみんないるのに、Nさんだけいないということを、

心が理解していなかった。

 

 

   *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 

Nさん、あの頃、とてもたいへんなこともいっぱい会ったけど、

久しぶりにみんなに会ったら、楽しかったよ。

けっこういろんなことやったもんね。

いろいろ思い出したよ。

みんな一生懸命だった。

TさんやIさんや、Oさんと話したよ。

Nさんもいたら、きっともっと楽しかったのに。

 

Nさん、ほんとになんだか変なんだよ。もういなくなっちゃうなんて。

だって、また仕事をお願いしようと思ってたんだよ。

 

今までのお礼さえ、まだ言ってない。

ていうか、改めてお礼を言うのなんて、まだ早すぎる。
まだ全然途中なのに。

一緒に、歳をとっていけると思っていたのに。

Nさん自身が、Nさんが死んでしまったこと、いちばん信じられないかもしれないけどね。

 

お通夜で、「へえ、そんなこともしていたんだ」と初めて聞くこともあった。

意外なほどバイタリティと行動力もあって、たくさんの経歴を持っていた。

おっとりとした見た目からはうかがいしれなかったけれど、

実はすごくパッションを持った人だったのかもしれない。

 

 

 

Nさん、直接言えなかったけど、やっぱり言っておきたい。

 

ほんとにありがとう。

会えてよかった。

 

とても寂しいです。

 

 

欲しかったのは、「希望」でも「ファースト」でも「美しい国」でもなく、「立憲」だったんだ、ということにやっと気づいた

 

「立憲」。それな!

 

そうだそうだ、その言葉があった!

と、この新しい政党の名前を聞いて思いました。

よくぞ党名に使ってくれたと思う。

 

「希望」とか、「美しい国」とか、「総活躍」とか、「ファースト」とか、「国難」とか

実体のないおためごかしの言葉の連発に感覚が麻痺して、

その言葉があったのを忘れていましたよ。

 

希望がないのに希望とか、寝言ばっか言ってんじゃないよ。

嘘ばっかりついてるから、言葉がそんなに空虚になるんだよ。

 

「立憲民主党」。

いい名前じゃないですか。

ロゴもセンスがいい。迷いがない。

 めざすところがバチッと定まっているときは、こういうところにも現れるもんだ。

 

残念ながらあまり頭がよろしくないので、政治的立場を表明すると揚げ足をとられたり、バカだと思われるんじゃないかと思ったり、引かれたりするんじゃないかという不安がなんとなくあるし、政治家を信頼してだまされるということがよくあるので、今まではほとんど考えを明らかにしませんでした。

どちらがいいと判断をしづらいこともいっぱいありますし。

 

でも、立憲民主党は、やりたいことがはっきりしてる。

「立憲」はブレない。

そこは、100%、全力で同意できる。

日本国憲法だけは、壊しちゃいけない。

それだけは。何があっても。

 

えだのんを見てると、「紅の豚」を思い出しちゃうんですよね。。(すいませんw)

でも、

カッコイイとは、こういうことさ!

 

twitter.com

 

 

 

「死ぬこと」に男女の違いはあるかーー「孤独死」について考えてみた

 

こういうことを言うと人でなしだと思われそうであまり口に出さないんですが、

「孤独死」のどこがいけないんだろうと常日頃思っていたわけです。

 

そりゃあ、誰にも気づかれずに死んでご近所や大家さんにご迷惑をかけるのはたいへん問題だと思いますが、言ってみれば問題はそれだけで、そこさえ事前に準備しておけば、本人は死んでるわけですからあとのことはどうでもいいっちゃどうでもいい(すいません、人でなしなので)。私自身は、お墓とかもどうでもいいし、親族にお墓参りしてもらいたいとも思わない。

まあ、こんな傲慢なことを言っている人間に限って、実際にその立場になったら人一倍動揺するような気もしますが、「そのとき」のことは実感としてはまだわかりません。

 

最近、こういった考え方はよくない、自分が今生きているのも、自分の親、そのまた親と、先祖代々からの子供を守っていこうという思いが続いて守られているおかげだ、だから決して祖先やお墓をおろそかにしてはいけないーーということをある方から教わり、なるほどなあとは思いましたけど、本音のところでは、「自分は死んじゃうんだからあとのことはどうでもいい」というドイヒーな考え方が根っこにあったりします(すいません、ほんと)。

 

ですから、「孤独死」は、本人ではなく周りの人の問題だろう、と思っていたのです。

 

ところが、どうやらそうではないみたいですね。

今朝もNHKの朝のニュースで、大阪の釜ヶ崎で5年前に立ち上げられた「見送りの会」を紹介していました。

www.asahi.com

この会を立ち上げた僧侶は、この会を立ち上げた理由を、孤独に暮らす高齢者の中に「誰にも気づかれずに死んでいくのはさびしい、ときには思い出してもらいたい」という声が多かったからだと言っていました。

 

それを聞いて思ったのですが、これはかなり男性的な感覚なのではないかということです。

昔から不思議に思っていたのですが、男性って「生きた証を遺したい」という感覚が女性よりも強いような気がします。

それは何か作品であったり、仕事の成果であったり、建築物であったり、家族であったり、いろいろなパターンがあると思いますが、この世に自分が生きたという爪痕みたいなものを何かしら残して死にたい、と。

その感覚が、どうにもよくわからないんですよね。

なんども言うようですが、

本人、死んでるわけですから。

 

私のことを言いますと、死んだあとに何一つ残らなくてもいいし、

死んだらそのへんにほったらかしてもらって野生動物に食べられて朽ち果ててもいい。それが生き物ってもんだと思います。

ですから、男性が「死んだ後」のことにこだわるのは、男性ってつくづく社会的に認められたい生き物で、それを必要としてしまうんだなあ、となんだか気の毒な感じがするのです。そうやって「生きた証」にこだわるわりに、孤独に陥りがちなのも男性ですよね。

上記の見送りの会も、映像で見る限り、ほとんど男性でしたし。

 

番組の中でひとつ納得したのは、この見送りの会に入ったことで安心して、見送ってくれる仲間のためにもしっかり生きなくては、と逆に生活にハリが出た、と話す男性の言葉でした。

男性は、見送りの会の仲間といっしょに、ボランティア活動にも参加するようになったと言っていました。

 

そうですよね。

「孤独死」を避けようとすることで、結果的に「孤独に生きる」ことをやめ、人とのつながりを作ろうとする。

つまり、「孤独死」の問題は、決して孤独に死ぬことが問題なのではなくて、「孤独な生き方」の問題である、

それはやっぱり本人にとっても周りに取っても問題だなと思いました。

 

周りでまだ身近な方が亡くなった方があまりいない方はピンとこないかもしれませんが、

人って、ほんとに

「生きてきたように死ぬ」

んですよ。

それはもう恐ろしいくらいに。

善かれ悪しかれ、死に方って、その人の生き方がありのままに出ちゃうんです。

生きてきたようにしか死ねない、というか。

 

ですから、満足して死にたいと思うのなら、日頃から満足して生きるしかないんですよねー。

 

今、孤独死が年間3万人だそうです。今後ますます増えることは間違いありません。

いつか自分も必ず迎えるその日のために、

「ああ、あの頃はこんなふうに考えていたな」と振り返られるよう、書いてみましたが、なんだか重たい話になってしまったような……。

たまにはこんなことも考えます。